私がウィーンに居た頃、
シェーンベルグコアでの
共演回数が最も多かったのは、
アーノンクール(指揮)
&
コンツェントゥス・ムズィクス(オケ)
の組合せでした。
アーノンクールの立ち上げた、
古楽器のオケです。
合唱は楽器に触発されて
器楽的なアンサンブルの仕方や、
古典のフレーズ感とエネルギーの使い方を学び、
オケはドイツ語やラテン語の歌詞を
まるで歌っているかのように、
奏でている感覚があり、
お互いがいつも一体感を感じるような、
心地良い魅力がありました。
帰国してから十数年経った今でも、
あの音楽スタイルと、
楽器の色鮮やかな響きが
忘れられません。
特にガイゲ(ヴァイオリン)の音色や、
弓の圧の掛け方や、
フレーズの運び方は、
歌い方のベースの一部にもなっています。
そして帰国して以来、
ずっと疑問に思っていたのは、
「日本ではなぜなかなか
こういう響きに出会えないのか?」
ということでした。
楽器や奏法の違い?
ホールや湿度の違い?
音楽感の違い?
言語感の違い?
文化の違い?
身体の違い?
指導法の違い?
色々考えて来て、
どれも当てはまる部分は
あるかも知れないけれど、
根本的に
ピンと来るものがありませんでした。
そしたら昨日、
あるヴァイオリニストの方と
お話をする機会があり、
とても興味深いお話を伺いました。
それは日本でガイゲを習う際は、
ほとんどの場合、
楽器を安定して持つために、
ガイゲに肩あてや顎あてという器具を着けて、
演奏するけれど、
外国人の先生や、
日本の少数の先生の中には、
それを着けることによって、
楽器の振動が身体にダイレクトに響く
妨げになるからと、
使わせない方がいるのだそうです。
私はそのことに関して全く素人で、
初めてその話を伺ったものの、
その方が補助を使わせない先生の下で学ばれた、
少数派だったため、
それを使うことと、
使わないことの違いについて、
ないことの難しさと苦労の反面、
ないと音がどう身体や骨に響くのか、
その響き方で、
楽器との一体感や喜びまでも
別物に感じられるということなど、
とても興味深いことを
教えて下さいました。
ただ、
顎あても肩あても今や使うのが
当たり前なので、
こんな話は現代では
誰も興味がないのだと仰っていました。
しかし私には、
何かとても深くて
大事な話に感じられたので、
帰ってから、
あのウィーンの古楽器オケの
ガイゲの音色は、
もしかしたら
その補助の道具を使わずに
演奏する方が多かったからではないかと思い、
動画を探してみました。
若き日のアーノンクール。
アーノンクールは指揮者であり、
素晴らしいチェリストでもあります。
この動画の後半(12:40~)では、
バッハのブランデンブルグ・コンチェルトの4番を、
コンツェントゥス・ムズィクスで
現在も演奏されているメンバーを含む、
小編成のオケが立って演奏していて、
前半は
アーノンクールがインタビューを受けながら、
演奏法について解説をしています。
チェンバロの前に半円に立って演奏するのは、
バロック時代のスタイルであり、
立って足にしっかり身体を感じて
演奏することは、
椅子に座って演奏するのとは別ものの、
各人のソリスト的な音楽感を
音楽が求めているからだ、
というようなお話をされていました。
またこの曲ではバロックフルートが
旋律のエコーとして聴こえるよう、
オケとは別の場所で演奏していることや、
バロックフルートが、
繊細さ、女性的、優しい感じを、
弦楽器が、
アグレッシヴさ、男性的といった反対の役目を、
互いに音楽的に表現しているとか、
その他、
アンサンブルとガイゲのソロが、
交互に移り変わる時に、
人と一緒に過ごす時の感覚と、
一人でいる時の自由な感覚の違いを、
音楽的感覚に置き換えて、
表現しているということも、
興味深く感じました。
動画の茶色のドレスの女性は、
アーノンクールの奥様ではないかと。
演奏を聴いて、
改めて感服しました。
何てビビッドな音色と音楽!!
美しい。
そしてガイゲを見てみると、
茶色のドレスの女性も、
他の何人かも、
顎あてを使わずに演奏しているし、
肩あてもただ布を挟んでいるように見えました。
技術的には難しいのでしょうが、
身体にダイレクトに音を伝えながら、
楽器と身体がいつも一体となった状態で
奏でることで、
喜びも不快も
体内に深く感じられるでしょうし、
その感覚と一緒に
音程感や音楽性を磨いて行くからこそ、
このような自分色豊かな
美しい音色に
到達するのではなかろうかと、
私が感じていた長年の疑問の答えの、
核を見つけたように感じました。
なぜならそれが、
声楽のレッスンで、
私のイギリス人の師匠が
何度も教えて下さった、
自分の身体に響く声、
魂と調和した響き、
(頭でなく)声帯が喜びを感じる声、
といった感覚と、
本質が同じように感じたからです。
声も楽器も自分の一部であり全て、
自己の魂と繋がり、
内側から外側へと、
そんな感覚で奏でることは、
たったワンフレーズであっても、
どんな表面的な立派なテクニックより、
魂を喜ばせるものだと感じます。
貴重な気づきの機会を得られたことを、
とても嬉しく思いました。